仏国駐剳特命全権大使兼国際連盟常任代表

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フランス大使、国際連盟理事を兼務

1930(昭和5)年、フランス駐在特命全権大使としてパリに着任。国際連盟の常任大使を兼務。昭和6年に勃発した満州事変は、連盟でも大きく取り上げられ、連盟での我国の立場は悪くなる一方だった。このなか、米国のオブザーバーとしての参加の可否を巡って日本と英仏が厳しく対立。孤立無援の中、芳澤謙吉は粘り強く巧みな外交手腕を発揮したが、裁決では「1:13」で米国の出席が認められた。満州事変の状況は次第に悪化していく。この状況の中、リットン調査団の派遣が決定された。

◇柳条湖事件

1931(昭和6)年9月柳条湖事件発生、連盟で説明を求められる。

  • 公電の到着が遅く、情報がなく苦労する。
  • 清国の全権大使の報告に対しても「不拡大」を主張し、対応。成り行きを見てということで一時休会に。
  • 米国の理事会参加を巡って英仏全権大使と対立。1対13で参加が認められた。

◇満州視察団派遣提案

1931(昭和6)年11月の連盟、理事会で、満州視察団の派遣を提案し採択。
翌年に満州、日本に6月報告書完成。リットン伯爵以下5人。オブザーバーは中国;願維釣、我が国;吉田伊三郎。1月に外務大臣に就任した謙吉翁は迎える立場で調査団に対応。調査団は荒木陸軍大臣に聞き取り。

 

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