里づくりだより

希望燃ゆ 諏訪の里 [第29回] 23.飯田川改修と三日月湖の誕生

2022年08月31日

溢れた飯田川の水 『公民館報諏訪村(解村記念号)』に掲載された寺田ひるもさんの「昔ばなし」の中に、次のようなことが語られている。


大正10年頃の夏かと思いますから、かれこれもう40年近く前になりましょう。夕立がやってきました。日照り後の雨であったことと、夕立にしては量も多く、長雨だった関係で、飯田川はみるみるうちに氾濫してきました。当時、改修工事は上流から施工されていて、今の真砂堰の上流3、4丁の処で工事が打ち切られていたため、改修地点までは水は速やかにくるが、未改修の下流は、川幅が狭いうえに幾所となく湾曲があるので流れが停滞し、溢れた水は干苅耕地の内外から新保沖、上真砂方面にかけて湛水し、一面濁水の海になってしまいました。農民はこの悲惨な実情を眺めて、ただため息を付く許りです。役場へ行くには、あの前の家から舟で渡るほか方法がなかったのです。当時、工事用の小舟がただ一艘ありましたので、やっとのことで連絡がつきました。役場の重要書類が、水浸しになったことは勿論です。庁舎の基礎を、コンクリートで高く築き上げたり、水害予防組合を拵えたりしたのはその後のことです。
公民館報諏訪村(解村記念号)』諏訪村公民館(1955.1.31)


この記事から、飯田川は曲流が激しかったこと、改修工事は上流から施工され真砂堰の上流3~4丁(1丁=約109m)のところまで行われ1921(大正10)年頃には一時停止されていたこと、未改修部分で溢れた水は役場付近に湛水したことが分かる。
辻町、米岡付近の改修 『ふるさと四辻町』(太田三男著 2008.6)には「飯田川堤防改修」について、次のことが示されている。


明治23.8.2   飯田川新築堤防築替について~角川人民総代菅山平一郎他9名
明治24.8.5  新潟出張諸費附立帳~菅山平一郎他、稲田より郷津まで人力車賃(飯田川改修陳情で)
明治24.12.23 堤防請願成功につき祝宴諸費帳


 1914(大正3)年作成の測量図から、当時の曲流と改修計画を読み取ることができる。
 図1は、現在の三高橋付近である。道路は、林酒店の前を通り、左岸に沿って上流に行ったところに橋が架けられている。改修後の曲流部分は、現在も古川(三日月湖)として、その一部を見ることができる。
 図2には真砂用水を取り入れた堰が見える。改修以前は、この付近で飯田川は大きく二つに分かれ、杉野袋集落近くで再び合わさっている。道路は、川の左岸に沿ってあり、下百々方面には結ばれていない。新堰予定地も示されている。曲流する飯田川は、この地域の道路、交通条件にも影響を及ぼしていた。
 県は、1916(大正5)年11月25日に河川改修が未実施の関係村長を郡役所に招集し、工事費の地元負担額についての同意を求めている。1914(大正3)年作成の測量図は、おそらくこの前後に各町村に示されたものと思われる。この求めにより、諏訪村は、1917(大正6)年2月15日に村会(村議会)を開催し、「議案第一号 飯田川治水事業に関する件」として、協議している。米岡は、この議会開催に合わせ2月23日付で「承諾書」を村に提出、経費の一部負担を受け入れることを承諾し、改修工事の開始を促している。翌年の1月には、上真砂が申請書並に承諾書を議会宛に提出している。
 1951( 昭和26)年9月に飯田川水害予防組合が作成した「飯田川全線改修完成記念式資料」で村長小熊辰治は、「飯田川改修の沿革」として、「ことに高士村より本村大字米岡に至る間の改修が逐年進行」「上流は砂防または河川改修により、ようやくこれが災害を免れるに至った」「大正6年林村長在任当時、計画起工以来三カ年を要した真砂堰大ピーアの竣工、及び昭和8、9両年同堰以下杉野袋永久工沈床までの改修…」と示されていることから、1917(大正6)年までに真砂堰より上流部で蛇行部分の改修を中心に改修工事が行われたことが分かる。米岡地内部分の改修資料は見つからないが、これらの工事は、1873年の「河港道路橋梁修築規則」施行で飯田川が二等川と指定されたこと、1880(明治13)年の「地方税規則」の改正で地方税を徴収しての工事が可能になったこと、1896(明治29)年に河川法で国庫補助金の割合が定められ堤防工事を町村に分担させたこと、さらには1919(大正8)年から1931(昭和6)年に県単独事業として行った飯田川改修工事の中で行われたものと思われる。工事費の地元負担が大きくのしかかる中、工面の中での改修の進行であった。

真砂堰下流区域の改修工事の着工 上流部の改修が行われたことで、必然的に下流部の災害は増すことになる。このため、村及び関係集落の間で水防組合設立が目指され、1935(昭和10)年5月、野俣盛治村長のもとに飯田川継続改修の請願及び水防組合設立準備が進められた。この結果、1936(昭和11)年5月5日に中頸城郡最初の「法人飯田川水害予防組合」が誕生した。組合は、懸案の下流部の継続改修施工を請願、1938年(昭和13)年4月3日に上千原尋常小学校で地鎮祭が行われた。地鎮祭に先立ち1937(昭和12)年度工事として、保倉川合流点からの562.5メートルが着工された。

飯田川〆切工事

 改修工事は、戦争が拡大する中でも1944(昭和19)年まで継続実施されたが戦況の悪化で一時停止された。戦後は国の公共事業として1946(昭和21)年度、1947(昭和22)年度に再開、その後中断はあったものの保倉川改修工事の一部として施工されることになり、金山橋近辺401.0メートルは1946(昭和21)年に、杉野袋付近260.0メートルの工事は1950(昭和25)年に施工された。こうして念願の杉野袋沈床より保倉川合流点までの4,455メートル、総工費426万円を掛けた工事は1951(昭和26)年3月に終了した。

 ※ 引用・参考 
  ・『公民館報諏訪村(解村記念号)』(1.31) ・ 『三和村史』pp.672-673(2002.3.25)
  ・『ふるさと四辻町』太田三男(6)       ・ 「村会会議録、決議書」(1917、1918)
  ・『飯田川改修の沿革』飯田川水害予防組合(9) ・ 「測量図」(1914)金子正氏提供

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