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里づくりだより

【諏訪の里の碑】~ 野俣佐平治君傳 ~

諏訪村初代村長をつとめた野俣佐平治の顕彰碑を紹介します。
顕彰碑は、野俣家旧宅の入り口付近に位置しています。
明治27年8月建立

この碑には、次の碑文が刻されています。

碑文を意訳すると、次のようになります。

野俣佐平治君傳
野俣佐平治君は、越後国中頸城郡諏訪村米岡の人で、天保九年生まれである。父は佐治右衛門、母は服部氏より嫁いできた。性格は意志が強く物事にくじけず、仕事をやり遂げる才能(材幹)が有った。物事を処理するにあたり、途中でくじけることがなく、人の為に真心を尽くして考えた。村の人々(郷當)はいろいろなことができるものと嘱(属)望していた。(焉)邑<諏訪村>はかつて幕府の直轄地であった。野俣氏は、里正(庄屋)を代々務めてきた。君が若いときに父は病を患い、長い間病床に在った。君は代わり里正の務めを果たした。その上、中江灌渠(用水)の事も総て兼ねて取りはからい、全てできた。其のことで、名声は既に遠近に聞こえていた。   
明治維新になり多くが見直され(百事更張)た。明治五年には 郡や村を大小区とし、小区に戸長が置かれた。君は之(戸長)に任じられるたが、幾ばくもなく戸長が廃止され、 副大区長が置かれ、君は又之に任ぜられた。明治八年に地租改正が有り、 君はその顧問となって公正で熱心に勤め、政府はその仕事ぶりを賞譽した。明治十二年、郡役所が新設され、君は選ばれ県会議員になった。明治十四年に、公選によって中江灌渠事務総理に選出され、その時から十八年まで務めた。その間 水理管理者としての対応は全て適切に果した。中でも中江灌渠の水源の一つ、信州野尻芙蓉湖落水の事は、とりわけ熱心に取り組み職務を遂行した。特に土地の人 (野尻の人)と野尻湖水の水利権を確定、契約し、長く問題が起こらないようにしたことの功績は最も著しい。明治二十二年に町村制が布かれ、選挙で村長に選ばれ、熱心に仕事に取り組み、工夫し職務を遂行(=鞅掌経営 おうしょうけいえい)したので、多くの事が緒についた。明治二十六年、突然、病気に罹り仕事が出来なくなってしまった。ああ、君は水理管理者として、このように力を盡くしてくれた。思いがけず病に罹ったことは、君の不幸だけでなく、あなたの郷土の人々にとっても不幸なことだ。今ここに、知友が集まり相談して、君の功績を石碑に刻んで、後世に伝えようということになった。文は予(私=山岸)に任された。予は、君と古くからの知人である。よって文章は整わないが、その概略を記した。
明治二十七年八月中浣
       舒逸山岸俊蔵 撰併書
       二峯古市多蔵 刻

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